江戸時代の漂流記「尾張者異國漂流物語」の「宝登山島」の謎に迫る

ディープ・プロファイリング

はじめに

 今日は、江戸時代に書かれた『尾張者異國漂流物語』のことを取り上げたいと思います。

 管理人がこの物語を知ったのはNHKの番組。 2017年5月6日に放映されたNHK BSプレミアム『池内博之の漂流アドベンチャー2「黒潮のその先へ 南島奇談」』という番組で初めて知りました。

 江戸時代の初めの頃、嵐で遭難した千石船がフィリピンまで漂流し、そこで自分たちで新たに船を造って日本まで戻ってくるというにわかには信じられないような物語です。漂流していたところを他の船によって救助され無事に帰国したという話はありますが、自分たちで船を造り、無事に日本にたどり着いたという話は聞いたことがありません。怪奇談と呼ぶにふさわしい物語です。

 そして、これは本当に起きた海難事故です。

 番組を見て興味が湧いたので調べてみました。

 管理人が関心を持ったのは、番組で語られなかった詳細な日付、船の大きさ、帰国航路、寄港地などです。特に、船をどうやって造ったのかということと寄港地に関心を持ちました。

 ところで、この物語について詳しく調べている人はいないようです。ネットを閲覧しても、いつものように金太郎飴の記事ばかりが目に付きます。

 そこで今回は、世界一詳しい「尾張者異國漂流物語」の謎に迫りたいと思います。

 管理人の記憶の奥底に、昔NHKで放映していたアニメ「キャプテン・フューチャー 」の一場面があります。それは、主人公キャプテン・フューチャー が乗った宇宙船が完全に破壊されてしまうのですが、それをゼロから造るというものです。

 子供心に、「そんなのできるわけがない!」と思った記憶があります。宇宙船を乗組員だけでどうやって造れるというのか? 建造技術は? 材料は? 電子部品は?

 管理人がこの漂流記に惹かれた理由は、「船を造って日本に戻った」という点です。単なる漂流記ではない凄さを感じました。

 もうひとつ気になったのが遭難した船の乗組員の人数の15人。

 ジュール・ヴェルヌの「十五少年漂流記」(1888年)を思い起こします。

 そして、海賊の歌『デッドマンズ・チェスト』。小説『宝島』の中の「Fifteen men on the Dead Man’s Chest」。ここでも15人。

 このことに関心を持たれた方は過去記事を上のリンクからご覧ください。本サイトの奥深さを感じられると思います・・・、たぶん。

『尾張者異國漂流物語』を読む

 いよいよ『尾張者異國漂流物語』を紐解いていきましょう。

 この物語は、江戸時代の漂流記です。

「尾張者異國漂流物語」表紙

 この物語については、原典とされるものがいくつかあるようで、史料により内容に若干の違いはありますが、大筋で同じです。

 通常はそれで良いのですが、本サイトのようにこだわって書いている記事の場合、それでは困ることがあります。

 ここでは、本記事を書くにあたり最も参考としたものを挙げておきます。

 出典は、『常滑に残る漂流記、「寛文八年申九月 大野村木之下町権田孫左衛門船婆靼國江吹流候口書一件」』1) を基本とします。原文筆書きのものを活字に起こしたものです。

 東京海洋大学附属図書館越中島分館所蔵の『尾張者異國漂流物語』2) とほぼ同じなのですが、一部に相違があります。(以下、前者を「史料1」、後者を「史料2」と呼びます。)

 実は、この相違こそ重要な気がします。管理人は両史料の相違自体には関心はありません。二つの史料があれば所々に違った書き方がなされているのが普通です。しかし、それが物語の核心部分の場合、話は違います。どちらかが間違っているか、両方とも間違っている可能性もあります。

 その核心部分とは、彼らが漂着したフィリピンのバタン島から自らが建造した船でたどり着いた島の名前です。これがどこなのか誰も知らない。だから、バタン島からの帰国のルートを誰も示せない。

 今回は、物語の細部を明らかにしながらこの謎に迫ってみましょう。

漂流記のあらまし

 時は寛文8年11月(1668年12月)、5代将軍徳川綱吉の時代の出来事です。

 尾張国知多郡大野村木ノ下町(現、愛知県常滑市大野町4丁目)の権田孫左衛門の千石船(弁才船)が木材を江戸に運搬した帰り、11月5日(1668年12月8日)、乗組員15人を乗せたまま渥美半島沖合で暴風に遭い一ヶ月ばかり漂流し、12月にフィリピンのバタン島に漂着します。

 この船は、江戸に木材を運んだ後、飯米3石、植木などを積み込み帰路につきます。11月4日、伊豆下田を出港、渥美半島大山の沖3里を航行しますが、北西風の影響で母港に船を寄せることができず、沖合に停泊します。その夜、強い西風を受け、東に流されます。

 激しい暴風のため船はそのまま流され続け、8日朝には帆柱を切り倒します。船の帆柱を切るのは最後の手段。すさまじい暴風で、転覆の恐れがあったことが分かります。

 そして、14日夕方より風向きが変わり、今度は西に流されます。その頃には船に積んだ水もなくなり途方に暮れます。飲み水さえないのですから、ご飯を炊く水などあろう筈もありません。

 ここで船頭の次郎兵衛が、伝え聞いた妙案を思い出します。それは、鍋に海水を入れ火にかけ、その上に樽を被せ、海水を蒸すことで、樽の中の水蒸気がしたたり落ち、下に溜まった真水を得るという方法です。これにより、2升の真水を得ることに成功します。そのうち雨が降ったため、水に困ることはなくなります。

 燃料は、大船の利点で、船体の一部を壊して薪にしました。食料は、積んでいた飯米、豆葉、葉茶を用いて雑炊にして食べました。

 風は15日から25日まで東風で、帆柱を失った船は、西へ西へと流され続けます。

 12月6日(1669年1月8日)、いくつかの島が見えてきます。下田を出て以来1ヵ月あまり漂流し、やっとたどり着いた陸地でした。

 彼らがたどり着いたのは、フィリピン北部の『バタン島』。彼らの乗った船は直線で2170kmもの距離を漂流したことになります。


 バタン島位置図

 島に着いた船乗りたちは、千石船に積んである「伝馬船」を海面に降ろし、島の様子を見に行くことになります。

 見つけた最寄りの島に午後2時頃上陸します。浜辺にいた原住民にこの島はどこの国の島か尋ねるも言葉が通じません。港はどこか尋ねると、南の方を指し示す。その日は、島の近くに投錨。翌7日朝、数百人の島の者たちが小舟で押しかけ、彼らの船の荷物を奪い去ります。船員たちは抵抗しますが、ろくに食べ物を食べていないため力が出ません。

 翌8日に彼らは島に連れて行かれ、そこで島の各家に一人ずつ奴隷として引き取られます。

(この部分の記述は「史料1」と「史料2」とでは大きく異なりますが、「史料1」の記述で書きました。)

 島に着いてやっと助かったと安堵した途端、いきなり奴隷にされた船乗りたち。

 この島の名前は「バタン島(Batan island)」。島に住んでいたのはイバタン人でした。船乗りたちはバタン島で16カ月を過ごすことになります。

 島民らは集落ごとに独立した社会を形成していたようで、船乗りたちがバタン島に到着して三カ月後、集落間の戦いが起こります。物語によれば、1669年4月2日から5月10日にかけて、Great Makata (マハタオ) とSekina (イバナ)という部族の間で戦闘が起こりました。この戦闘でマハタオ側は309人の死者と900人の負傷者を出し、イバナ側は91人の死者と407人の負傷者を出しました。

 このような戦闘があったのは事実でしょう。死傷者の数から考え、かなり大規模な戦争だった事が分かります。この数値が誇張されていると考える人もいるようですが、船乗りたちが残した記述はとても正確で、この数字はかなりの信憑性があるものと思います。(脚注2参照)

 バタン島のイバタン(Ivatans)と呼ばれる人たちは、イバタン語という独自の言語を話す民族のようです。この初めの「イ」は接頭辞で、“〜人”という意味になります。イバタンとは、バタン島の人という意味になります。

 バタン島はダンベル型をしており、長さ20km、最も広い部分の幅6.5kmばかりの小さな島です。島の北には、1454年に噴火した活火山イラヤ山(1009m)、南には休火山のマタレム山(405m)があります。

 船乗りたちが上陸した場所は、物語の記述から島の中央部のディウラ(Diura)付近ではないかと管理人は考えます。注1) また、イラヤ山の最後の噴火から200年あまり経っていますが、噴火による植生への影響を考えると、生産性の低い土地が広がる島の北側には集落は少なかったと考えられ、船乗りたちが滞在した場所は島の南側の集落だったのではないかと推測できます。

 奴隷としての彼らの仕事は、山で薪を集め、畑で草取りと芋の植え付けなどでした。島では芋以外の五穀は栽培されていません。島民は文字を知らず、言葉も通じずで、乗組員たちは苦労することになります。

 船頭の次郎兵衛を3月頃から、舵取りの治右衛門を4月頃から見かけなくなります。主人に聞いても、島民に聞いても誰もが口をつぐみ話そうとしない。そこで子供に聞いたところ、年寄りで働きが悪いため殺されたとのこと。

 この島では、年老いて働けなくなった親を山に連れて行き、谷底に突き落とすという風習があり、次郎兵衛や治右衛門の殺害が特別だった訳ではないようです。

 13名になった船員たちは一計を案じます。船を造りこの島からの脱出を図ることにしました。

 奴隷の身分の船乗りたちが船造りをするには主人たちの許可が必要です。

 そこで島民に対し、日本には金銀がたくさんあり、真鍮、銅や鉄などの金属もたくさんある。自分たちが船を造り日本に帰ることができれば、それらの金属をこの島に持ち帰ることができる、と嘯(うそぶ)きます。当然、島の者たちは信用しません。日本に戻ったらこの島に戻ってくるわけがない、と主張します。

 これに対し船乗りたちも必死に抗弁します。この島では日本で貴重な紫檀、黒檀が採れる。これを輸出品として、日本と通商することができる。この島の人は鉄などの金属を手に入れ、日本は紫檀、黒檀を手に入れる。皆が幸せになれると。

 彼らの話に心を動かされたのか、島の人たちは船員に一丁の斧を貸し与えます。このたった一丁の斧で船造りが始まります。また、破壊された千石船の残骸から古釘をいくつか入手しました。釘は木材に穴を開けるときのノミの役目を果たします。

遭難した千石船の大きさ

 遭難した千石船(弁才船)はどのくらいの大きさだったのでしょうか。これは乗組員の人数から推測できます。

 遭難した千石船の乗組員が15名だったことから、積載量700-800石、積載重量150トン、全長29メートル、幅7.5メートル、15人乗りのタイプだったと推定されています。千石船の設計、サイズはほぼ完成されたものとして扱われ、江戸時代を通じてほとんど変化していません。

弁財船

 この数値を見てもピンと来ませんが、ちょっと過去記事を振り返ってみましょう。

北極海にこつ然と消えた二隻の英国軍艦!フランクリン探検隊の謎を追う』を読むと、1845年に北極海で消息を絶ったイギリス海軍の軍艦エレバス号(HMS Erebus)とテラー号(HMS Terror)の船の長さは、エレバス号が全長32m、テラー号が全長31.09mでした。これから考えると、この遭難した千石船はこれらの軍艦に匹敵するかなりの大きさだったことが分かります。

 船体の一部を壊して薪にすることが可能な大きさだったということでしょう。

彼らが造った船とは

 寛文9年10月より船の建造に取りかかります。そして寛文10年3月に完成。わずか6ヵ月で船を完成させたのですから、驚くべき速さとしか言えません。

 木材を伐採し、それを板に加工し、船を建造する。この工程を斧一本だけでやり遂げました。

 完成した船は、どのようなものだったのでしょうか。

 造った船の長さは八尋程度。1尋が5尺(1.5125m)とすると、長さが約12mの船になります。

 木材同士を繋ぐ鉄の”かすがい”がないため、それを桑の木で作り、麻縄で縛り上げる構造だったようです。

 この船で東シナ海を渡って日本にたどり着いたのです。途中、「南京の宝登山」という島に着きます。そこから現地の船で日本に戻ったのではなく、彼らの船で九州五島までたどり着きます。

 いくつかの文献には宝登山で小舟をもらい、それに乗って五島に着いたようなことが書かれていますが、それは間違いです。史料1にも史料2にもそのような記述はありません。そもそも11名が乗り込む船なので小舟では無理です。

 さて、船を半分ほど造ったところで、大野村の長吉が伐採中に木に打たれ、肋骨を折る大怪我をし、30日あまり後亡くなります。これで船乗りたちは12名になります。

 長吉の臨終の間際、主人を枕元に呼び、もうじき船もできあがるでしょう。私たち13人は常々、日本に帰ったら金銀鉄などをこの島に持ち帰り、ご恩に報いると話していましたが、自分の不注意からご恩も返さずに死んでいくことが残念でなりません。私に代わり、残りの者たちがそれを果たし、我らの主人にたくさんの品々を進呈するでしょう、といって果てました。

 それを聞いた島民は皆涙し、それ以降、船員たちを少しはねぎらうようになります。

 半田村の五郎蔵という男。鉄の鎹(かすがい)も使わないこのような稚拙な船で日本に帰るのは無謀だと考えるようになり、船造りの手伝いにも出てこなくなります。荒海で船はバラバラになり、サメのエサになるのが関の山と考えたのでしょう。

 船員たちは、この島に彼一人残して日本に帰るのは不憫に思い、出港の際には無理矢理にでも船に乗せようと相談します。しかし、五郎蔵の決意は固く、妻を娶り、帰国を拒み続けます。船の出港が近づくと、彼の主人と相談し隠れてしまい、会うこともできません。

 しかたなく、11名で船出することになります。

 さて、船が完成し出港が近づくと、航路をどうするかが問題となります。

 日本の方向は北か東か。一月あまり漂流してきたため、帰るべき日本の方角が分かりません。

 そんなときは神頼み。寛文10年3月4日(1670年4月23日)、愛宕精進なる火伏せの祈禱によりご神託を仰いだ結果(神籤)は『北』と出ました。また、出港の日は4月中旬か下旬かと念じれば、中旬との神託を得ます。

 何とも恐ろしい話です。もし、東に向かったなら、一人も日本に戻ることはなかったのですから、これが運命の分かれ目となります。そして、運命は彼らに味方します。

 ついに船が完成。船に積み込む食料、水などを準備します。

船に積み込んだもの
芋: 30日分

水: 桶大小 8個、 土鍋10個に水を入れる。椰子の実54個

道具: 斧 1本、ノミ 2本 小刀 2本、袋 2枚

日本への土産として主人からもらった物など。

 寛文10年4月15日(1670年6月2日)、五郎蔵を島に残し、残りの船員たち11名が日本に向け出港します。

 風任せの航海の末、10日後の4月24日、南京の宝登山という『島』にたどり着きます。

 ここに5月23日まで滞在。

 さて、彼らはこの「宝登山という島」までどのようなコースを辿ったのでしょうか。いや、その前に、「宝登山」とはどこなのでしょうか。

 バタン島は冬でも暖かかったことから、彼らが出港した三河国よりかなり南に位置していることを彼らは知っていたはずです。そして、かなりの距離を西に流されたことも知っています。

 つまり、戻るべき故郷は北東の方角にあると分かっていたと思います。ところが、一カ月にわたる漂流中に島影を見ることはなかった。もし、北東に向かえば、食料や水が尽きる恐れがあります。

 祈祷の後で引いた神くじに示された「北」に向かえば、どこかの島にたどり着くことができると考えたのではないでしょうか。

 しかし、心の中では故郷はもっと東にあるという思いもあり、真北に向かうのではなく、少し東寄りの進路をとったのではないか。

 たどり着いた島は、『南京之内宝登山』とあります。彼らは「島」にたどり着きました。これはどこなのでしょうか?

 宝登山には日本語を話す者がおり、彼らの冒険談に同情し、地元の人からは歓待を受けます。そして、手書きの地図、食糧や道具類、お土産までもらいます。

 5月28日、宝登山を出船。七日後の6月5日(1670年7月21日)に五島列島に到着します。

 その後、長崎に移動し、長崎奉行の尋問等を受けて、9月19日、ようやく尾張国に着くことができました。

『南京之内宝登山』とはどこだ?

 彼らがたどり着いた「島」の場所については現在の研究者も特定できていないようです。

 南京とあるので中国の南京を調べると、海からかなり離れています。中国沿岸を虱潰しに調べても『宝登山』に該当しそうな島はありません。ここで言う『南京』とは都市の名前ではなく中国全体を指す言葉のようにも思えます。

 バタン島から真北に向かうと、日本最西端に位置する与那国島と台湾の中間を通過します。両地点の距離は110kmほどです。どちらかの陸地が見えたのではないか? しかし、物語にはそのような記述はありません。

 もっと東に進路をとったとすると石垣島の可能性もあります。西のルートなら台湾本島の可能性もあります。(脚注3参照)

 沖縄県最高峰の於茂登岳(525m)は、沖縄本島から南西に410Km離れている石垣島・石垣市にある山。桴海於茂登岳(ふかいおもとだけ)は、於茂登岳の北東約2kmに位置し、沖縄県石垣市桴海にある標高477mの山です。

 桴海於茂登岳(ふかいおもとだけ)は、『南京之内宝登山』と「音」が似ている気がします。でも、違う! この時代、石垣島は薩摩藩が領有しており、船乗りたちが外国と間違うはずがない。

 バタン島を出港して10日目にたどり着いたとすれば、黒潮に乗って東シナ海をもっと北に行ったのではないか。

「宝登山」とは澎湖諸島(台湾)か

「宝登山」はどこか。そのヒントとなるのは次の記述です。

  1. 「宝登山」は比較的小さな島であること。
  2. 日本は「宝登山」の東に位置していること
  3. 「宝登山」またはその近くの島は、(琉球ではなく)長崎と貿易をしていること。
  4. 日本語を話す人がいること
  5. 漂流民にとても親切であること。
  6. 寺がいくつもあること
  7. 住民は弁髪していること
  8. 日本(五島)までのわずか7日間の船旅なのに到着以前に飲み水が尽きたこと⇒3日程度の船旅を想定していた?

 「漂流奇談全集」p55 15)には、「近年にいたって韃韃國の人より責(だったんこくのひとよりせめとり)」とありますが、本記事の参考文献では、「近年たつと言国とていといふ国よりせめ取今皆々その国之風に成申候」とあります。両者は意味が全く違います。

 前者は韃韃國(タタール)。明代では、滅亡後北方に逃れた元の遺民を韃靼と称したそうです。

 そして、後者は、「たつ」という国と「てい」という国から攻め取ったと書かれています。

 「たつ」とは明代最後の皇帝「崇禎帝(すうていてい)」のことかも。「崇」は「たっとぶ」と読めます。

 「てい」は、「鄭 成功(てい せいこう」の「てい」では? すると、台湾という可能性が出てきます。

 この「たつ」と「てい」とは何か。干支と十干の「辰」と「丁」が頭に浮かびます。そして1592年、97年の秀吉の朝鮮出兵、「壬辰・丁酉倭乱」のような干支が示す戦を思い出します。しかし、「丁辰」という干支は存在しません。どうも干支ではないらしい。

 鎖国政策により、それまで南海に進出していた倭寇は姿を消します。彼らは、台湾と中国本土との間にある澎湖諸島(ほうこしょとう、ポンフーしょとう)を停泊地として使っていました。日本語ができる人がいてもおかしくはない。

 彼らが漂流した1668年頃の中国の王朝名は「清」。1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国を支配しました。

 ここで、当時の台湾の状況を調べてみます。

 「1622年、オランダ東インド会社(The Dutch East India Company)はまず明の支配下にあった澎湖を占拠し、東アジアでの貿易拠点を築いた。その後1624年には明軍と8ヶ月に渡る戦火を交えた(en:Dutch pacification campaign on Formosa)。両国の間で和議が成立し、明は澎湖の要塞と砲台を破棄し、オランダ人が台湾に移ることを認めた。このようにして台湾を占拠することとなったオランダ人は、一鯤鯓(現在の台南市安平区)に熱蘭遮城(Zeelandia)を築城し、台湾統治の中心とした。」Wikipedia、オランダ統治時代 (台湾)

 「台湾島の領有を確認できる史上初めての勢力は、17世紀初頭に成立したオランダの東インド会社である。東インド会社はまず明朝領有下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を中心とした地域を制圧して要塞を築いた。なお、同時期の1626年には、スペイン勢力が台湾島北部の基隆付近に進出し、要塞を築いて島の開発を始めていたが、オランダ東インド会社は1642年にスペイン勢力を台湾から追放することに成功している。

 オランダによる統治期間中、東インド会社は福建省、広東省沿岸部から大量の漢人移住民を労働力として募集し、彼らに土地開発を進めさせることでプランテーションの経営に乗り出そうとした。その際に台湾原住民がオランダ人を「Tayouan」(現地語で「来訪者」の意)と呼んだことから「台湾(Taiwan)」という名称が誕生したという説もある。だが、台湾の東インド会社は1661年から「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、翌1662年には最後の本拠地要塞であるゼーランディア城も陥落したために、進出開始から37年で台湾から全て駆逐されていった。」
Wikipedia、台湾の歴史

 「鄭氏政権(ていしせいけん、1662年 – 1683年)は、17世紀の台湾に存在した政権。清朝への抵抗拠点を確保するために、鄭成功が台湾を制圧することで成立した。台湾で初めて漢民族政権による統治が行われたが、清朝の攻撃によって政権は20年強の短命に終わった。」
Wikipedia、鄭氏政権 (台湾)

 「1644年、李自成の反乱によって明朝が滅亡し、満州族の王朝である清が成立。これに対し明朝の皇族・遺臣たちは「反清復明」を掲げて南明朝を興し、清朝への反攻を繰り返したが、1661年に清軍により鎮圧された。大陸での「反清復明」の拠点を失った明の軍人、鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保するために台湾への進出を計画、1661年3月23日に祭江を出発、翌24日には澎湖諸島を占拠しオランダ・東インド会社を攻撃、4月1日には台湾本島に上陸し、1662年2月1日にはオランダ人の拠点であった熱蘭遮城を陥落させ東インド会社を台湾から駆逐することに成功した(ゼーランディア城包囲戦)。台湾の漢民族政権による統治は、この鄭成功の政権が史上初めてである。

 東インド会社を駆逐した鄭成功は台湾を「東都」と改名し、現在の台南市周辺を根拠地としながら台湾島の開発に乗り出すことで、台湾を「反清復明」の拠点化を目指したが1662年6月23日)に病没した。彼の息子である鄭経たちが事業を継承したが、清朝の攻撃を受けて1683年に降伏し、鄭氏一族による台湾統治は3代23年間で終了した。」 同上。一部要約。

 年表にまとめると、
ポルトガル船が台湾を発見(16世紀中期:1554年より前)
オランダ統治時代(1624~1662年)
明の滅亡(1644年)
明の鄭成功時代(1662~1683年)
清の統治(1683年~)

 つまり、船乗りたちが漂流した1668年頃には、台湾は鄭成功が支配していたことになります。

 「たつ」とは「辰(しん)」⇒「清(しん)」のことを示しているようにも思えます。

 「てい」は、明の軍人、鄭成功(1624-1662)のこととすると、「宝登山」とは台湾の島ともとれます。むしろ、その方が納得できる。この鄭成功という人物は、平戸生まれで母親は日本人です。

 でも、台湾から五島まではかなりの距離があります。バタン島から宝登山までが10日、宝登山から五島までが7日の船旅でした。やはり、台湾ではないような気がします。

 台湾の東海岸に漂着したのであれば、琉球の話が出ないのはおかしい。台湾西側の澎湖諸島に到着したのであれば、五島までの日数が短すぎます。


Image: Wikipedia画像を加工

「済州島」ではないか

 中国本土の周辺に該当しそうな島がないことから、管理人は、『済州島』にたどり着いたのではないかと考えてみました。バタン島から済州島まではちょうど1500km。この距離を10日で渡ったとは考えにくいのですが、他の状況から推測すると、済州島がよくマッチします。

 たどり着いた島には、日本語を話す人がいました。中国本土ならまだしも、中国本土に近接している島々に日本語を話せる人がいるとは思えない。

 これに対し、『済州島』なら日本に近く、歴史的に見ても日本語を話せる人がいてもおかしくはない。島民に日本の位置を尋ねると『東』と答えます。彼らが最終的にたどり着く五島列島は済州島の真東に位置しています。

 島にたどり着いた船乗りたちは、島民・役人から歓待されます。当時の『済州島』の住民の気質から考えても、この島が有力なのではと思います。

 船乗りたちは、「宝登山」を5月28日に出港し、6月5日に五島列島に着きます。航海に要した日数は八日間? 違います!

 ここで注意しなければならないのは、日付は旧暦だと言うこと。これを西暦に直します。

 宝登山出港は、寛文10年5月28日(1670年7月15日)で、五島到着が、寛文10年6月5日(1670年7月21日)です。この航海は7日間です。

 もし、宝登山が済州島だとすると、五島までの直線距離は195kmほどです。

宝登山=済州島仮説

 航海日数と距離から見ると、済州島よりももっと南に宝登山が位置しているように思えます。

 しかし、物語に記載されている内容は、済州島を示しているようにも思います。

 たとえば、もし上海の近く、揚子江の河口付近の島にたどり着いたとしたら、彼らは捕らえられ、南京まで連れて行かれたのではないでしょうか。

 日本語が話せる人がいること、五島や長崎との貿易をしていることなどから、日本に近い済州島こそ宝登山島と考えるのが妥当のように思います。

 航海日数と距離については、海流を調べなければ分かりません。

 では、海流はどうなっているのか。


Image: コンバンク、「海流」

 難破船は黒潮反流に乗って西に流されたということ以外、この図を見てもよく分かりませんね。そもそも海流は季節によっても違うし、大きく蛇行しています。一枚の図で表示できるほど単純ではない。

 世の中は進化しています。衛星画像の連続動画があると視覚的に分かりやすい。

 これは、過去記事『ベーリング海峡ダムとは:悪夢の計画に迫る!』で掲載したGIFです。

Source: NASA

 NASAの映像では、黒潮がかなりの勢いで東に向かって流れているのが分かります。バタン島から真北に向かって進むのはかなり難しい。そのまま黒潮に乗れば、彼らの母港に着きそうです。

 しかし、彼らは潮の流れに乗らず、北を目指します。彼らの操船技術があれば、それは可能だったでしょう。

 しかし、バタン島から中国本土、上海のあたりに到着するのは難しいかも。むしろ、真北に進む方が可能性としては大きいように感じます。

 上のGIFでは黒潮は東に向かっていますが、季節により、北に向かう流れも発生します。彼らの船は、その流れに乗ったのではないでしょうか。

 調べた結果、海流に乗れば、10日間で1200kmの距離を帆船で航海するのはそれほど無理なことではないようです。

 済州島から五島に着くまで七日間要した理由。風待ちなので日数では判断できない。そもそも帆船による移動に、距離と日数だけで考えること自体、大きな問題をはらんでいます。

 管理人が済州島と考える理由は次の四つです。

 一つに、宝登山から見て長崎の方向が東にあると島民が話していること。
 二つに、宝登山から長崎までの距離(海路)が190里であると島民が話していること。
 三つに、長崎までの海図(絵図)を島民からもらったこと。
 四つ目が、五島に向かう7日間の航海の途中で飲み水が無くなったこと。

 ここで着目すべきは、航海途中で飲み水がなくなったということです。もっと早く到着するはずだと考えていたことが分かります。本来なら、7日もかかる距離ではなかったということです。たぶん、4日程度と見積もっていたのでしょう。この時は、幸い雨が降ったために飲料水を確保できました。

 済州島の南にある西帰浦市の港と長崎とは直線距離で315kmです。

 髪型についての記述を見ても、当時の清とは少し距離を置いた感じを受けます。

 当時の済州島には「三無」というものがあり、それは、「泥棒がいない」「乞食がいない」「外部からの(泥棒と乞食の)侵入を防ぐ門が無い(必要無い)」ということのようです。

 現在、それは「皆無」かも知れません。済州島の犯罪発生率は韓国の中でも群を抜いて高いようです。

 ここまで調べて、やはり済州島ではないと思うようになりました。

 船乗りたちは、「南京」と何度も書いています。当時、済州島は李氏朝鮮の支配下にありましたが、李氏朝鮮は、1627年(丁卯胡乱)と1636年(丙子胡乱)で清国に敗れ、「冊封体制・羈縻支配下に入った」とWikipediaに書かれています。これを清の支配下にあると解釈するのなら、中国の一部ということになり、乗組員たちが南京と書いてもおかしくはない。

 しかし、どこか引っかかるものがあります。それは、もし済州島の住民であれば、少なくとも自分たちの島を『南京の宝登山』とは決して言わないだろうと考えるからです。

 やはり、宝登山は済州島ではない。するとどこだ?

中国近くの島の可能性

 物語には「南京の」と明記されています。当然、中国の南京に違いない。ところが該当しそうな島が見当たらない。縁起物が大好きな中国人だから「宝」という文字を使った地名がたくさんあると思ったのですが、見つからない。

 明代の南京は、都市名ではなく省の名前になっているようです。現在の江蘇省と安徽省を合わせた範囲が南京と呼ばれていたようです。

明代の行政区分

 中国沿岸の島々をくまなく探しましたが、「宝登山」あるいは「ほうとう山」と読めるような島は見つかりません。

 そこで、日本語を話す人がいたこと、長崎と交易があることをヒントに、貿易港を探すことにしました。すると、以下の記述を見つけました。

 「 特にそれらの海難船の多くが中国大陸へ漂着している。そして、中国大陸へ漂着した多くの日本人達は、漂着地に近い中国の港から日本の長崎に来航する貿易船で帰国した。ところが、江戸時代中後期以降になると日本へ来航する貿易船は浙江省嘉興府平湖縣乍浦鎮からの船に限定され、中国へ漂着した日本人の多くは漂着地から沿海の帆船に乗せられて、乍浦に送られ、乍浦で日本への貿易船の出港まで安置され帰国している。」 12)

 乗組員たちが宝登山に到着したのは1669年のこと。17世紀半ばから後半です。ということは、このとき日本と貿易していたのは『乍浦(嘉興)』ということになり、ここが宝登山である可能性が大きくなります。 そもそも『江戸時代は乍浦(嘉興)が唯一の長崎航路であった。11)』という記述も見かけたので、宝登山の島民が長崎と貿易していると話していると言うことは、宝登山とは『乍浦(嘉興)』、あるいはその周辺の島と考えられます。


 Image: 世界の歴史まっぷ、明代のアジア(15世紀半ば)

宝登山とはどこかを特定する

 11人の船乗りを乗せバタン島を出港した船は、南京の宝登山(ほうとう山)近くの無人島に着きます。ここはどこなのでしょうか。これが管理人にとって最大の謎です。

 この物語を編集した人、それを紹介してる方も含め、大部分の人は、何の問題意識も持たずに中国(南京、シナ)としているだけです。

 でも、管理人は「宝登山とはどこなのか」が気になります。これが分からないと物語が中途半端になります。帰国の航路が分からないからです。

 この島を特定できそうな記述を物語の中から改めてピックアップしてみましょう。

  1. バタン島を4月15日(1670年6月2日)に出港し、10日目の4月24日(1670年6月11日)に無人島に到着します。
  2. この島に5月3日(1670年6月20日)までの10日間停泊します。漁船を見つけ、(言葉が通じないものの)日本の方角を尋ねると「東」という返事を得ます。すぐに、別の船を見つけます。役人が乗っている船らしい。この船には日本語ができる人が一人乗っており、事情を説明。
  3. 5月3日、この船の後について出港し、3里ほど南にある港に入港。あたりを見物してまわる。寺院が多い。
  4. この島の住民は”南京人”と記載。この島に20日港で風待ちをしていると、日本について尋ねると、長崎とのたびたび交易をしていること、長崎までの海図(絵図)をくれたこと、長崎までは190里。5月28日(1670年7月15日)、宝登山を出港、6月5日(1670年7月21日)五島着。

 長崎から190里の距離とはどのくらいなのでしょうか。

 それを知るには、まず、『里』とはどの国のものかを知る必要があります。

 ところで、190里って何キロ?

 江戸時代の1里は、3927.2688m。すると、190里で746kmになります。これは、上海-長崎間の直線距離とピッタリ一致します。長崎は上海のほぼ東に位置しています。ということは、宝登山とは上海周辺の島だったのではないか。

 さらに、この話は宝登山で聞いたもの。そこで使われている1里とは何キロメートルのことだったのかが問題になります。

 清代の1里は、577.8m。190里で110kmです。

 韓国の1里は、400m。190里で76kmです。

各国の1里の長さ比較

 そして、宝登山から長崎までは、日本の里では746kmになります。

 長崎港を中心とする半径746kmの円を描くと下の図になります。

長崎港を中心とする半径746kmの円
 「なんちゃって☆めも」を用いて作図

 この図から、南京・宝登山とは、浙江省舟山市の島「普陀山(ふださん)」が有力なのではないかと思います。

 『「普陀山」は、中国四大仏教の聖地とされています。観音菩薩(水)の霊場にあたる「普陀山」は、文殊菩薩(地)の「五台山」、普賢菩薩(火)の「峨眉山」、地蔵菩薩(風)の「九崋山」とともに中国四大仏教聖地にあげられています。唐代に開山され、杭州に都がおかれた南宋(1127~1279年)時代に島すべての寺院が禅寺となって仏教聖地という性格が確立されました。

 普陀山という名前は、インドのサンスクリット語「Potalaka(ポタラカ)」を音写したもので、「普陀山」以外にも、「補陀落山」「宝陀山」などさまざまな漢字があてられてきた。』10)
 
 さらに、この地には日本語を話す人がいました。そして、鎖国中の日本(長崎)と交易をしていると言っています。当時、清からの対日輸出品として重要だったのが磁器です。陶磁器で有名な景徳鎮は普陀山の西400kmに位置しています。

 中国の沿岸を見渡しても、日本語を話す人がいる地域は限られていますし、交易している港も限られています。

 普陀山と日本とのつながりは古く、8、9世紀、そして12世紀にも五島列島との間に航路がありました。仏教国日本にとって、普陀山は聖地だったのでしょう。9)

 「宋元(10~14世紀)時代から1000年に渡って寧波が日本使節団や商人の窓口となっていました。普陀山は寧波と九州博多を結ぶ航路の寄港地だったことから、日本ゆかりの話も多く残っています。」10)

 上で紹介した「乍浦」。現在は、「乍浦鎮(さほ-ちん、チャプー-ちん)と呼ばれ、中国浙江省嘉興市(地級市)平湖市(県級市)にある港町」です。普陀山はこの近くにあります。

 管理人は、『宝登山』は『普陀山』であると考えます。これが管理人がたどり着いた結論です。

 すると、バタン島までの漂流ルートとバタン島からの帰国ルートは以下のようになります。

漂流ルート

 ここまで調べて気づいたことがあります。この難破船の母港だった大野港のある常滑市の有志の方による「常滑市民の作る常滑のホームページ」に、物語とともに以下の画像が掲載されています。画像は『普陀山』の俯瞰図です。

 同じ画像は中国の観光サイトでも使われています。

 なぜ船乗りたちは「普陀山」を「宝登山」と聞き取ったのでしょうか。

 普陀山の発音は[Pǔtuó shān]。「プートウオーサン」と耳で聞いたこの音を漢字に当てはめると「宝登山」になる、ということでしょう。

 「宝登山とはどこにあるのか」という謎解きはこれで終了です。

 以下で、物語の中で不明な点を少しばかり明らかにしておきましょう。

実は三年ではなかった漂流

 この漂流記には三年もの間の漂流というような記述が何カ所か出てきます。それを真に受けて、三年の漂流と紹介している記事を見かけますが、本当に三年だったのでしょうか。

 渥美半島沖で暴風に遭遇したのが寛文8年11月5日のこと。そして、九州五島に到着し、日本の地を踏んだのが寛文10年6月5日です。

 寛文8年、9年、10年と足かけ三年の漂流であることは間違いないのですが、現代日本では、これを三年とは言いません。

 彼らが遭難し、日本に戻るまでの日数は、1年7ヵ月15日です。二年に満たない。五島に着いてから故郷に戻るのに三カ月以上かかっているので、彼らは遭難してちょうど2年後には故郷に戻ったことになります。

なぜ遭難したのか

 そもそも彼らの船はなぜ遭難したのでしょうか。

 遭難した場所は母港の大野港(現常滑市)からそれほど離れていない遠州灘。この遠州灘は、風待ちの港がないため海の難所の一つとされていました。

 そして、冬に北西の風が吹くと、港に船を寄せることができず、そのまま流されてしまうという海難事故が頻発していました。

 彼らの漂流は、滅多にない出来事だったわけではなく、当時、頻発していた海難事故の一つでした。

15人の乗組員とは

 ネット上の記事を見ると、15人の乗組員の名前として出てくるのは、船頭の治郎兵衛、舵取りの治右衛門、怪我で亡くなった長吉、そしてバタン島に残った五郎蔵の4名くらいです。残りの11名の名前は伝わっていないのでしょうか。

 そんなはずはなく、伝わっています。

松栄丸乗組員名簿
   出典:8)

 管理人がこのことにこだわる理由は、船頭と舵取りという船の航行に重要な役職の人間が殺害され、残りの人たちで船を造り、日本までたどり着いたことに違和感を覚えたからです。残りの人たちって、船上ではどんな役職に就いていたのか興味がありました。

 上の表から分かるのは、船頭、舵取り以外は、ほとんどが甲板員という役職だったことです。

 「まかない」の八蔵が中心となり、日本への生還を果たしました。船頭、舵取りという船の幹部を失った船乗りたちが無事に日本までたどり着けたのは、八蔵の優れた統率力と航海術によるところが大きかったと思います。

 また、長三郎は船大工の経験がありました。船造りは長三郎が中心となって行われたのでしょう。

 彼らが造った船は、長さが12メートルもあります。この大きさの船をどうやって進水させるのか。陸上で造った船を海に浮かべる方法です。これは船の建造開始時点から考えておかなければなりません。

 小さな船なら、丸太を横に並べ、その上を滑らせて渚に移動させます。大きな船ならドッグを造り、進水時にドッグに水を引き込み、船を浮かせます。

 13人もの人間が乗ることができる船なので、長さが12メートル、幅は2メートル以上あったでしょう。とても人の力で動かせるような重さではありません。どのような方法で進水させたのか分かりませんが、長三郎の船大工としての技術力が高かったのは間違いありません。

 そして、八蔵の航海技術も見逃せません。南京の普陀山から五島まで的確に船を進めています。まさに、普陀山ー長崎航路を進んでいったのです。

 帰国後の彼らがどのような余生を送ったのかは分かりません。そもそもそのような記録は存在しないはずです。家に帰ったら、夫は死んだと思った女房が別の男と結婚していたとか、自殺したものもいるとか、書いてある本もあるようですが、それは執筆者の考えた作文でしょう。

 鎖国の時代。海外の体験を語ることも本にすることも禁じられていました。残されたのは、幕府が取り調べた詳細な調書。

 幕末生まれで明治に活躍した編集者、著作家 石井研堂(本名:民司(たみじ)、1865年8月14日(慶応元年6月23日)- 1943年12月6日)のような人がいたからこそこの物語が現代まで伝えられたのでしょう。

 以前、『葛飾北斎の謎を追う』という記事を書いたときに調べた『葛飾北斎伝』を残した飯島虚心を彷彿とさせます。

漂流した船の名前とは

 不思議なことに、この物語には、遭難した船の名前がどこにも書かれていません。管理人が探したすべての史料に船の名前が載っていない。これはとても奇妙です。

 江戸時代の漂流記はたくさんありますが、船の名前が書かれています。しかし、「尾張者異國漂流物語」だけ船の名前が書かれていない。この物語は上に書いたようにとても詳しく書かれているのに、肝心の船の名前が書かれていない。

 こんな基本的なことが分からないと落ち着かないので必死に調べてみました。すると・・・。

 この船の名前は『松栄丸(しょうえいまる)』だと知りました。1788年(天明8)、北海道松前を出帆した船が遭難し、翌年、中国南部広東省に漂着した『松栄丸「広東」漂流物語』と同じ名前です。

 船員のメンバー表や船の名前は、参考文献8の「庄野英二全集 3」に収録されている「バタン島漂流記」に基づいています。この本は、童話として書かれたものですが、「史料1」「史料2」の記述をくまなく取り入れているように思います。他の部分も英文文献と照合してもよく調べられていることが分かります。管理人は、庄野英二氏の記述の大半は筆者の作文ではなく、文献に基づいていると感じました。

 庄野氏が執筆に用いた元本は、
 『異国漂流記集』の中の「尾張国知多郡大野村孫左衛門船漂流帰国之事」、荒川秀俊編、気象研究所監修発行、1962
 『日本庶民生活史料集成 第5巻 漂流』の中の「尾州大野村船漂流一件」、池田晧編、三一書房、1968

おわりに

 この記事を書き始めて早一月。なかなか奥が深くまとまらなかったのですが、やっと書き終えました。

 この物語については、いくつかの書籍が出版されているようです。でも、管理人の関心は、それらの書籍の著者の作文ではなく、原典にどう書かれているのか、ということでした。

 そこで原典を読み解き、この記事を書くことにしました。

 原典を読んでいて疑問に感じたのは、随所に日付が記載されていることです。それが正しいかどうかは不明ですが、だいたい何日頃という記述ではなく、ピンポイントの日付が記載されています。しかも、閏月を知らなかったとの記述もあり、記載されている日付の信憑性が増します。

 当時の暦は、翌年の暦が公表されるまで閏月がどうなるのかは分からなかったのです(本サイトでは歴についての記事をいくつか書いています。画面トップのサイトマップで「歴」で検索すると簡単に探すことができます)。この辺のことがしっかり書かれていることに驚きました。船乗りたちは、バタン島で奴隷として働いていた間も、今日が何月何日なのかを完全に把握していたのです。

 船を造り上げる技術力、バタン島民を謀(たばか)る知力、そして航海術。

 この物語の原典に接し、巷の作家の作文ではなく、彼らの本当の知力を垣間見ることができました。一介の船乗りたちがこれだけの知力を持っていることに驚くとともに、信仰心についても垣間見ることができました。

参考資料:
1. 常滑に残る漂流記、「
寛文八年申九月 大野村木之下町権田孫左衛門船婆靼國江吹流候口書一件」、常滑市民の作る常滑のホームページ

2. 『尾張者異國漂流物語』、所蔵:東京海洋大学百周年記念資料館寄託資料 (東京海洋大学附属図書館越中島分館所蔵資料)
3. 「バタン島漂流記解説」。船員が15人であることからして700-800石であったと推定される。
4. 「池内博之の漂流アドベンチャー2「黒潮のその先へ 南島奇談」」
5. 洋々閣HP
6. 済州島地図
7. Institute for Cultural Diplomacy
8. 「庄野英二全集 3」、庄野英二、偕成社、1979、p.144
  これは童話として書かれたものですが、史料に基づき忠実に物語を作っています。

9. 「世界史年表 地図」、亀井高孝他、吉川弘文館、1995
10. 「浙江省009普陀山 〜「海天仏国」と舟山群島」、「アジア城市(まち)案内」制作委員会、 オンデマンド (ペーパーバック) 、2016
11) 飛耳長目 国際紛争の心理
12) 「清代沿海帆船に搭乗した日本漂流民」、松浦章、或問 WAKUMON59 No.12、2006、pp.59-68
13) 普陀山については、「第一次普陀山之行」に写真付きで詳しく載っています。
14) “1 The Batanes Islands, Their First Observers, and Previous Archaeology“, Peter Bellwood and Eusebio Dizon (4000 Years of Migration and Cultural Exchange: The Archaeology of the Batanes Islands, Northern Philippines), 2013, pp. 1-8
15) 「漂流奇談全集」、石井研堂校訂、博文館蔵版、明治33年

脚注
1) バタン島を発見したときの記述に、「流レゝ申内に西之方に嶋一ツ有。南に壱ツ東ニ壱ツ嶋三つ有。何れ之嶋へ上り可申と御くし取候ヘハ、東之嶋へ上り可申様に御くし下り申候」と「嶋の者共又手ニしかして、しかた致し南の方ニ有由ニ付、漕寄セ申候ヘハ、小き嶋の脇御座候」とある。バタン島の東海岸で小島が見えるのはDiuraしかない。

2) 船乗りたちが漂着した年より19年後にイングランドの海賊(バッカニア)で世界周航を3回成し遂げた最初の人物であるウィリアム・ダンピア(William Dampier、 1651年 – 1715年)がバタン島を訪れたが、彼が残した手記よりも漂流した船員たちの記述の方がより詳細で信頼できる。

3) 山田幸宏氏(姫路獨協大学名誉教授)や児童文学者の庄野英二氏などは、宝登山を台湾と比定している。